先日、朝の6時過ぎに宿を出て、
朝いちばんにマルヴァーンの丘へ登ったときのことです。
見晴らし台にあるベンチの前に、
ゴミが散らかっていました。
朝いちばんにマルヴァーンの丘へ登ったときのことです。
見晴らし台にあるベンチの前に、
ゴミが散らかっていました。
どうやらフィッシュ&チップスの包み紙のようです。
こんなに美しい景色のなか、
美味しくご飯を食べた後、
平気でゴミを残していける、
その神経が理解できません。
美味しくご飯を食べた後、
平気でゴミを残していける、
その神経が理解できません。
どうしてこういうことをして、
胸が痛まずに平気でいられるのでしょうか。
胸が痛まずに平気でいられるのでしょうか。
自分が世の中の常識だと思っているわけではありませんが、
こんなことをする人がいるなんて・・・と、
小さな怒りを感じました。
こんなことをする人がいるなんて・・・と、
小さな怒りを感じました。
ゴミらしいゴミを見かけたのは
2日間の丘登りで、このときだけです。
丘にゴミ箱は設置されていなかったので、
大半の人はゴミを持ち帰っているのでしょう。
2日間の丘登りで、このときだけです。
丘にゴミ箱は設置されていなかったので、
大半の人はゴミを持ち帰っているのでしょう。
ほんの一握りの心無い人たちのせいで、
後からやってくる、
私のようなハイカーが嫌な思いをするわけです。
後からやってくる、
私のようなハイカーが嫌な思いをするわけです。
少し腹立たしさを感じつつ、
ゴミを拾って、リュックの中に入れました。
ゴミを拾って、リュックの中に入れました。
これで、私の後にここを通る人は、
ゴミを目にすることなく、
美しい景色を楽しめるだろうし、
見知らぬ誰かの醜い行為に対して、
私のような苛立ちを感じることもないだろう・・・
そう思ったときに、
こんな考えが頭をよぎりました。
ゴミを目にすることなく、
美しい景色を楽しめるだろうし、
見知らぬ誰かの醜い行為に対して、
私のような苛立ちを感じることもないだろう・・・
そう思ったときに、
こんな考えが頭をよぎりました。
私は、子供のころに親から虐待されていたため、
自分に対して価値を見出すことができず、
自分に自信をもつこともできず、
ぐずぐずと、後ろ向きな人生を送ってきました。
自分に対して価値を見出すことができず、
自分に自信をもつこともできず、
ぐずぐずと、後ろ向きな人生を送ってきました。
小学生のころ、
あまりに追い詰められた私は
もう親を殺すしかない、
と思ったときもありました。
あまりに追い詰められた私は
もう親を殺すしかない、
と思ったときもありました。
寝ている親に突き立てるだけだ・・・
そう思って、
台所から包丁を取り出したこともありました。
そう思って、
台所から包丁を取り出したこともありました。
しかし、そんなことを実行する勇気もなく、
結局、親から罵られ、殴られ続ける毎日を
続けるしかありませんでした。
結局、親から罵られ、殴られ続ける毎日を
続けるしかありませんでした。
中学生になるころには、
自分に親を殺すことはできないと悟り、
今度は自殺未遂ばかりしていました。
自分に親を殺すことはできないと悟り、
今度は自殺未遂ばかりしていました。
自分が生きている価値、
自分が生きていていいという理由、
自分が生きている意味を、
まったく見出すことができなかったのです。
自分が生きていていいという理由、
自分が生きている意味を、
まったく見出すことができなかったのです。
大人になってもその気持ちは変わらず、
50年近く生きてきた今になっても、
自分に自信が持てず、
だましだまし生きているような気分です。
50年近く生きてきた今になっても、
自分に自信が持てず、
だましだまし生きているような気分です。
ふとしたときに、
このまま死んでしまったら楽なのに・・・
と思うときもあります。
このまま死んでしまったら楽なのに・・・
と思うときもあります。
以前に比べたら、
比較にならないほど外交的になりましたが、
今でも、ときに卑屈な笑いで状況をごまかしたり、
いわゆる「人並み」な人生を送れていない自分を
どうにかしたくても、どうしようもなくて、
落ち込んでしまうときもあります。
比較にならないほど外交的になりましたが、
今でも、ときに卑屈な笑いで状況をごまかしたり、
いわゆる「人並み」な人生を送れていない自分を
どうにかしたくても、どうしようもなくて、
落ち込んでしまうときもあります。
そして、こんな自分を見ていたくなくて、
自分をごまかしたり、
現実逃避してしまうこともあります。
自分をごまかしたり、
現実逃避してしまうこともあります。
旅行に出たり、
美術館に行ったりしていることも、
美しいものに没頭できるからのような気がします。
美術館に行ったりしていることも、
美しいものに没頭できるからのような気がします。
というのも、そうしている間は、
現実から目を背けていられますから・・・
現実から目を背けていられますから・・・
でも、このときに思ったのです。
こうして、私の後からここを通る人が
気分を害さないように、
ゴミを拾うという些細な行為でも、
「ほんの少しは人の役に立てた」と
思ってもいいんじゃないか?
気分を害さないように、
ゴミを拾うという些細な行為でも、
「ほんの少しは人の役に立てた」と
思ってもいいんじゃないか?
別にゴミがあろうが、なかろうか、
気にしない人が大半かもしれません。
気にしない人が大半かもしれません。
それでも、たった一人でも
その人の気持ちが曇るのを防ぐことができたなら、
それは、取るに足らないことではあるけれど
その人の「役に立った」ことになって、
自分が「人の役に立った」と考えてもいいのでは?
その人の気持ちが曇るのを防ぐことができたなら、
それは、取るに足らないことではあるけれど
その人の「役に立った」ことになって、
自分が「人の役に立った」と考えてもいいのでは?
そして、こういう小さな「役立ち」を積み重ねることが、
少しずつ「自分は、生きていてもいい」という
許可(自信?)の積み重ねに繋がって、
いつか、自分でも自分のことを
「生きていてもいい存在」と
思えるようになるかもしれない・・・
少しずつ「自分は、生きていてもいい」という
許可(自信?)の積み重ねに繋がって、
いつか、自分でも自分のことを
「生きていてもいい存在」と
思えるようになるかもしれない・・・
もしかしたら、
こういうのを「偽善」と言うのかもしれません。
こういうのを「偽善」と言うのかもしれません。
単なる屁理屈なのかもしれません。
でも、何もできずに、
無為に日々を過ごしているよりも
取るに足らない小さなことでも、
誰かの笑顔を曇らせないことに貢献することで、
ほんの1ミクロンずつでも
「自分は生きている価値がある」と思える自分に
近づくことができるのではないかと思えたのです。
無為に日々を過ごしているよりも
取るに足らない小さなことでも、
誰かの笑顔を曇らせないことに貢献することで、
ほんの1ミクロンずつでも
「自分は生きている価値がある」と思える自分に
近づくことができるのではないかと思えたのです。
人生の後半になっての、
悪あがきかもしれません。
悪あがきかもしれません。
それでも、何もせずにいるよりも、
何かできるかもしれない と思ったことを
やってみたいと思いました。
何かできるかもしれない と思ったことを
やってみたいと思いました。
ゴミのなくなった緑の丘を眺めなら、
そんなことを考えていました。
そんなことを考えていました。
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